神呪寺
- FRACTUS 編集部

- 3月27日
- 読了時間: 7分
更新日:3月31日
春分のターンは、潮満珠・潮涸珠が誘う古代への道を辿ります。
序. 春分

神呪寺とは、「かんのうじ」と読み、兵庫県西宮市甲山町に在る真言宗の寺院です。
寺名は神を呪うという意味ではなく、本来「じんしゅ」と読み真言を表しています。また「神の山(かんのじ)」である甲山を差す言葉が合わさって神呪寺となったとも謂われます。
甲山は仲哀天皇の御代、神功皇后が国家平安守護を願い、如意珠や金甲冑、弓、剣などを埋めたと伝わる古代の霊山でした。
この寺が真言宗であり空海に縁がある所以を、5月18日の一日のみ公開される本尊、秘仏・如意輪観音にまつわる伝説が示しています。
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游 天橋立
にて、丹後の籠神社は古代より眞井原に奥宮があったと触れました。
空海が仕えた時の天皇・第53代淳和天皇は、皇太子時代に夢告により訪れた京都の六角堂で清らかな姫と出会います。
その姫こそ籠神社の宮司・海部氏の娘厳子で、幼い頃より如意輪の教えに帰依し六角堂にて修行を積んでいたのでした。
淳和天皇は厳子の天性の美しさを見初め、出身地の名である「眞名井御前(真井御前)」と呼び、第四妃に迎えて寵愛しました。
824年、都は折からの干魃や飢饉に苦しめられていました。
淳和天皇は東寺の空海と西寺の守敏に祈雨の勅命を下します。守敏が先に雨乞いを行い、17日経ってようやく1日雨を降らすことに成功します。空海は平安京の龍穴である神泉苑で請雨の修法を行いますが、一向に雨が降りません。訝しんだ空海は守敏が法力で龍神を封じているのを突き止めます。そこで、唯一守敏に抑えられていなかった善女竜王を天竺から勧請して祈ったところ、都だけでなく国中に三日三晩雨が降り、大地を大いに潤したと云います。
この時、空海は密かに眞名井御前より「水江浦嶋子の筐(みずのえうらしまのこ の はこ)」を借り受け、中に納められた珠の霊験で雨乞い対決に勝利したという説があります。水江浦嶋子とは、『御伽草子』に登場する浦島太郎のモデルとされる人物で、今も丹後与謝郡に残る古刹・浦島神社の縁起によれば、開化天皇の後裔にして丹後国与謝の領主とされます。
『丹後国風土記』によると、浦嶋子についてこのように書かれています。
雄略22年(神代478年)、余社郡(よさのこおり)の管川(つつかわ)の⼈浦嶋子は、一人舟で釣りに出て、3日3晩の後に五色の亀を釣りあげます。亀は美姫へと変身し、島子は誘われるままに常世へと連れられます。姫の家で2人は昴星(すばるぼし)と畢星(あめふりぼし)の化身である童子達に迎えられ、人と神が交わることを寿ぐ姫の両親の歓待を受けます。嶋子は常世で姫と夫婦の契りを結び夢のような3年間を過ごしますが、やがて望郷の念にかられて一人帰郷を決めます。姫は別れ際、もう一度会いたいと願うなら決して開けてはならないと注意して玉櫛笥を渡します。嶋子が郷里に戻ると、なんと300余年が経っていました。つい玉手箱を開けてしまった嶋子は、中の物が雲となって天空に飛散するのを見て、二度と常世に戻れないことを悟り、呆然とするのでした。
浦嶋子は雄略22年(478年)の7月7日に常世の国へ行き、347年を経て天長2年(825年)に戻ってきました。
この話を聞いた淳和天皇は、神となって帰ってきた浦嶋子を「筒川大明神」と名付け、小野篁を勅旨として派遣し「宇良神社(うらのかむやしろ)|現:浦島神社」を建立させました。
ここに、年代の符号が見えます。
347年前の雄略22年は、籠神社の奥宮・眞名井神社に祀られていた豊受大神が伊勢神宮に遷られた年だったのです。
347年経って戻ってきた浦嶋子とは、何を暗示するのでしょうか。

物語にはまだ続きがあります。
826年、淳和天皇の寵愛を一身に集めていた眞名井御前は宮中の女御達から嫉妬され、厭世した御前は二人の侍女を連れて密かに宮中を出立、霊山甲山に入ります。剃髪して、如意尼と名を改めます。
828年、空海より如意輪の修法を17日間授けられます。
830年、如意尼は空海から伝法灌頂を授けられ、最高位の阿闍梨の位となります。この年堂内の桜の木を伐り出し、等身大の如意尼の姿を写して、33日間かけて如意輪観音が彫られます。
831年、淳和天皇の寄進を受けて神呪寺の本堂が落慶します。
835年3月20日。高野山の方角を仰ぎ見、如意輪の真言を誦えながら、僅か33歳という若さで如意尼は遷化します。
その翌日、空海もまた如意尼の後を追うように入定したと伝わります。

835年の3月21日は、春分の日でありました。
825年に建立された浦島神社は2025年の今年、創建1200年を迎えます。
347年を経て戻ってきた浦嶋子。
347年前に眞名井神社より伊勢へと遷られた豊受大神の化身とも見える如意尼。
そして空と海を統べる名を持つ空海。
この伝説的な3人の物語の背景をつなぐ一族とは誰でしょうか。
浦嶋子は、丹後与謝郡筒川村の人で日下部(くさかべ)氏の祖。開花天皇の末裔とされますが、その大祖は月読命です。
日下部氏は766年、神呪寺を含む摂津国(現:六甲周辺)の首長となります。
浦島神社の社殿は珍しく北向きだそうで、古代中国から伝わった道教の思想である北辰信仰の影響を受けていると云われます。北辰とは北極星のことです。
社殿が北向きであるので、南に向い遥拝することになります。浦島神社から南に線を引くと、神呪寺があります。
神呪寺の在る甲山は、現・廣田神社の神奈備でした。
廣田神社の主祭神は、憧賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかき いつのみたま あまさかる むかつひめのみこと)。『日本書紀』の神功皇后の条に登場する神で、古代の海人の神・瀬織津姫と同神とされています。眞名井御前の幼名「厳子」の名も、この神名から取られたものかも知れません。
神呪寺には瀬織津姫の本地仏とされる弁財天が祀られています。弁財天はとぐろを巻いた白蛇の上に座し、白蛇の形を象ったものが如意宝珠とされます。眞名井御前の出家名・如意尼との関連を思わせます。
甲山の神呪寺の西には、瀬織津姫の総本山と云われる六甲比命大善神社が座しています。六甲山には数々の巨石があり、夏至を陽遥する古代のストーンサークルがあります。
そして、六甲の巨石には地球の歳差運動の影響で26000年周期で星空を移動する北極星が描かれており、このストーンサークルが造られた時代の北極星は、現代と同じこぐま座のポラリスを指しています。つまり、26000年前に遡る古代祭祀場であるのです。
六甲を「ろっこう」と読まず、「むこう」と読むとどうでしょう。向かう媛、向津媛とは、何に向かっているのでしょうか。それは太陽であるのかも知れません。すなわち日を読み暦法を成す日巫女であるのです。
日を読むのは何の為でしょうか。
それは航路に吹く風を識る為ではないでしょうか。空海も乗った遣唐使船は36回のうち26回渡航に成功しています。殆どは7月8月に集中しており、秋から冬にかけて北西の風が吹く季節風を利用したと考えられています。8月7日頃を節目とする立秋に吹く風を初嵐と呼びます。古代の船乗りは、地球に吹く季節風の潮目が変わるのを待って船出したと云います。
また、ストーンサークルには正確に地球の歳差運動により変移する北極星の位置が印されています。
星を読むのは何の為でしょうか。
浦嶋子は与謝郡の出身です。地名と同じ与謝の名を戴く星があります。それはシリウス、船出した海人がまず先に目印にする星です。そして北極星はいつの時代も航海の民を導く揺るぎなき道標でした。
浦島神社の主祭神は、月讀命と祓戸大神(大祓詞で瀬織津姫とされる)です。
月を読むのは何の為でしょうか。
古代の航海技法はスターナビゲーションです。つまり星が羅針盤であるため、夜に出航します。無事に港に着くのは朝陽を浴びる時です。天孫降臨の地である九州地方に多く残る神楽は、このために夜通し舞われ、日の出と共に終わるのではないでしょうか。航海の無事を祝う祭りとして。もしかしたら出航日は、星が輝く新月の日だったのかも知れません。
神呪寺からは、遥かに摂津国が見渡せます。晴れていれば大阪湾も望めるそう。
古代、西宮の港を発つ船を見送った場所だったのかも知れません。

春分のターンは、潮満珠・潮涸珠が誘う古代への道を辿ります。
序. 春分
参考資料
・神呪寺
・浦嶋神社
・京都市 都市史
・京都新聞
・JR西日本 Blue Signal 西日本の美しい風土
・NPO古代遺跡研究所 所長 中島和子氏論文
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