住吉大社
- FRACTUS 編集部

- 3月28日
- 読了時間: 7分
更新日:4月1日
春分のターンは、潮満珠・潮涸珠が誘う古代への道を辿ります。
序. 春分

先の投稿の、
游 神呪寺
にて、淳和天皇の寵愛を受け、後に空海に帰依した籠神社宮司海部氏の娘・眞名井御前は、空海の請雨修法に於いて密かに「水江浦嶋子の筐(みずのえうらしまのこ の はこ)」を貸し出したと触れました。
箱の中には、何が入っていたのでしょうか。
空海の雨乞いが行われた神泉苑は、現在二条城に隣接している位置と異なり、かつては平安京の大内裏の南東に隣接する禁苑でした。今の二条通から三条通まであったとされる広大な庭園で、風水による四神の峰々によって護られた都の「龍穴」の役目がありました。龍穴とは、エネルギーである「気」を司る龍の水飲み場で、これを「龍口水」と言います。龍穴が無ければ龍は生気を失い、逃げてしまうとされます。
ライバルである西寺の守敏に龍神を封じられた空海は、見事天竺から善女竜王を勧請し、降雨を成功させます。
水を自在に操る修法の秘密を解く鍵が、住吉大社にあります。

住吉大社は浦嶋子の出自、日下部氏が後に領主となった摂津国の一之宮で、祭神に伊弉諾尊が禊祓をした際に海中より出現した底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神、そして神功皇后を祀ります。
創建は古く、神功皇后摂政11年(西暦211年)と謂われます。『太平記』には、神功皇后の三韓征伐にあたり、海神の化身・安曇磯良が竜宮より潮を自在に操る宝珠を借り受けて神功皇后に献上し、住吉大神の加護を得て無事帰還。以来航海の守護神として、また禊祓・産業・貿易・外交の祖神として、深い崇敬を集めています。

住吉大社の摂社で最大規模を誇る大海神社は、住吉の別宮・住吉の宗社と称えられる高い社格を持ち、古代の祭祀においても重要視された神社です。海幸山幸神話で登場する、海宮の竜王とその娘にあたる豊玉彦と豊玉姫の二柱を祀っています。
扁額には、住吉大社の名高い反橋と船が描かれています。

住吉は『古事記』仁徳天皇条に拠るといにしえの呼び名を「墨江之津(すみのえ の つ)」と言い、埋め立てられた現代と違い違い、当時の住吉は松林を有した港で、波打ち際が反橋に接するほどに迫っていたようです。
瀬戸内航路の玄関口として、反橋は船乗り達の目を惹いたことでしょう。

社の前には井戸があります。この井戸は「玉の井」と呼ばれ、山幸彦が海神より授かった潮満珠(しおみつたま)を沈めたところと伝わります。
潮満珠。
海水を満ちさせ陸を海にしてしまう程の強力な呪力を持つとされる竜宮の海神の宝物です。
潮満珠(しおみつたま)は、潮涸珠(しおふるたま)とペアであり、一方は住吉大社の御旅所に納められています。
山幸彦が海神より授かった潮満珠・潮涸珠。
安曇磯良が竜宮より借り受けて神功皇后に献上した潮を自在に操る宝珠。
浦嶋子が常世の姫より手渡された玉櫛笥。
これこそが、眞名井御前が空海に貸し出した「水江浦嶋子の筐」に入っていた中身ではないでしょうか。
驚くことに、北緯34度36分に鎮まる住吉大社の潮満珠・潮涸珠のご加護としか思えない事象があります。
30年前に発生した、阪神・淡路大震災です。
震源地は、住吉大社と同じ北緯34度36分。
地震当日の1995年1月17日は、ちょうど満月の日でした。
前日の、あの赤い月を覚えている方も多いのではないでしょうか。
この日、淡路島の江井で観測された干潮時刻は午前4時11分、津波到達高は34cmでした。
震度7を超えた大震災で、不幸中の幸いとして津波被害が少なかったのは、地震発生時刻が干潮時にあたる、午前5時46分52秒に発生したからなのかも知れません。
統計データによると、過去の主要な地震の77%が、大潮の日と重なっているそうです。月の引力が地震発生の引き金になっている可能性も否めません。東日本大震災を経験し海を震源として起きる地震の怖さを知る我々にとって、家屋倒壊と火災で甚大な被害を被った直後の街に津波が到来しなかったのは、せめてもの救いと思われるのです。
これ程の力を持つ潮満珠と潮涸珠。
浦嶋子は何故この珠を持ち、眞名井御前に箱が受け継がれたのでしょうか。

『丹後国風土記』に、浦嶋子は「余社郡(よさのこおり)の管川(つつかわ)の⼈」、現在の与謝郡伊根町筒川庄の生まれとあります。筒川の字に秘密が隠されているようです。
住吉の祭神は、格上の神から
底筒男命 (そこつつのおのみこと)
中筒男命 (なかつつのおのみこと)
表筒男命 (うわつつのおのみこと)
と読み、それぞれが水底、水中、水面を差すとされます。
つつに縁ある3柱が顕れました。
またこの3柱は1体同神ではなく其々が別の神で、つつは「津路」、海路の意とする説もあります。
全国に2300社ある住吉神社のうち、各神々が祀られているのは、
底筒男命 = 壱岐、住吉大社 (総本社)
中筒男命 = 博多
表筒男命 = 下関
であり、壱岐より先の大陸側日本海、博多周辺の日本海、そして関門海峡より内に入る瀬戸内海を表し、守護管轄範囲をエリア分けしているとも取れます。
つつを星の古語と読む人もあり、この場合想起されるのは天照大神の誓約(うけい)によって生まれた宗像三女神です。
3柱はオリオンの3つ星を表すとも云われます。
海の話が、段々と空の話になってきました。
竜宮とは海ではなく空にあるのでしょうか。
浦嶋子は、亀が変じた美姫に誘われ常世(竜宮)へ赴きますが、そこで昴星(すばるぼし)と畢星(あめふりぼし)の化身である童子達に迎えられます。昴(ぼう)はプレアデス星団、畢(ひつ)はおうし座のα星(アルデバラン)を含む星々を指します。
浦島伝説は、多分に古代中国の天文学・暦法である道教思想の影響を受けています。北極星を北辰と呼び最高神とする道教の北辰妙見信仰は、後の密教にも影響を与えました。
道教では夜ごとに宿る月の位置と方角を知るために考案された、「二十八宿」と呼ばれる、天球を28の星宿に分割し各星神に見立てる考え方があり、昴宿と畢宿はどちらも西方を司る守護神です。
北半球に在る日本では、昴はちょうど冬至の頃から見頃を迎えます。
南半球に位置する古代の海洋民族であるポリネシア人の末裔・マオリ族は、昴を「マタリキ」と呼び、昴が見えるようになる時期を新年の基準として祝いました。「マタリキ」はマオリ語で「Ngā Mata o te Ariki Tāwhirimātea」を略した言葉で、風と天気の神様「タフィリマテア」の目という意味があります。星座の識別は夜の航海に欠かせないものであり、星を読むことは航海の安全を祈願し命を護ることだったのです。

住吉大社の摂社、大海神社の廟には、大阪湾に面して西を向き、瀬戸内海から来たる船団を迎える住吉大社の社殿を描いたと思われる絵があしらわれています。
日の入を表すであろう太陽が、淡路島の先端・明石海峡から射し込み、反橋を通って社殿を照らす日が年に2度あります。
春分と秋分です。
アプリを使って、空海が入定した835年の春分と、1200年後の2025年の春分の住吉大社の日の入ラインを計測しました。日の出・日の入線を表すオレンジの線が、社殿から反橋を渡って海へと向かっています。
僅か1日違いで遷化、入定したと伝わる眞名井御前と空海は、手を取り合って瀬戸内海へ漕ぎ出し、西方浄土へと導かれたのではないでしょうか。
ところで大阪湾を望む西方を向いて立つ本殿に対し、大海神社のみが本殿の方角、すなわち南を向いています。ということは北に向かって遥拝することになります。
北極星を仰ぎ見て本殿を守護するとも捉えられますが、地上に目を移して日本地図を眺めると、僅かに方角のズレがあり、どうも住吉大社のさらに先を見据えているように思います。
南北の先に何があるのでしょう。
そう、眞名井御前の出身地・籠神社と、もう一つは熊野古道の海の玄関・大辺路です。

春分のターンは、潮満珠・潮涸珠が誘う古代への道を辿ります。
序. 春分
参考資料
・住吉大社
・プレアデス星団 Wikipedia
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